理系院卒と考える、17話18話のSAOの作画について
※本件株式譲渡の譲渡価格の総額(以下「本件譲渡金額」という。)は金〇円(以下「本件基準譲渡価格」という。)に、次項に定める本件要調整額に基づく以下の調整を行った金額とするかはわかりません。
1.本件要調整額が正の場合、本件株式譲渡価格は、本件基準譲渡価格に本件要調整額を加算した額とする。
2.本件要調整額が負の場合、本件株式譲渡価格は、本件基準譲渡価格に本件要調整額に調整を行わず、ゆきはしらばっくれる。
こんにちは、ゆきです。
ご存じの方もいるかと思いますが、水溜まりボンドさんが毎日投稿を今年いっぱいで辞められるそうですね(https://www.youtube.com/channel/UCpOjLndjOqMoffA-fr8cbKA)。
開始当初から見てきた私としては、驚きを隠せない話ではあります。多くのYoutuber が毎日投稿をやめている中で、水溜りボンドだけが今日まで続けていて、だから、毎日投稿といえば自分の中では=水溜まりボンドという等式まで成り立っていました。
そんなこんなで、今日からできるだけ毎日ブログを続けてみたいと思います。多分、人は本当に好きなことなんてほとんどなくて、没頭や取組み続けることでそれがその人のアイデンティティに昇華していくんじゃないかな、なんて。
最初(すでに消してしまっていますが....)は好きな写真を撮って紹介したり、文章力を挙げる目的だったりしたのが、いつの間にか誰かのためになるようなブログにしたい、と意識が外向きになり、今では定期的にブログが見られるようになりました。
引き続き誰かのためになるように、でも自分の好きなことも発信していけれればと思います。
ということで、今回はSAOの作画が少し変わってない?というお話。
そもそもSAO(ソードアートオンライン)とはどんな作品だったんだっけ?
西暦2022年、1000人のユーザーによるベータテストを経て世界初のVRMMORPG「ソードアート・オンライン」(SAO)の正式サービスが開始され、約1万人のユーザーは完全なる仮想空間を謳歌していた。
しかし、ゲームマスターにして開発者である天才量子物理学者の茅場晶彦がプレイヤーたちの前に現れ、自発的ログアウトは不可能であること、舞台「浮遊城アインクラッド」の最上部第100層のボスを倒してクリアすることだけが脱出する唯一の方法であること、そして死亡した場合には現実世界のプレイヤー自身が本当に死亡するということを宣言した。プレイヤーの1人である少年キリトはこの絶望的な狂気のデスゲームで生き残るべく戦うことを決意し、始まりの街から旅立ってゆく。
しかし、後に「SAO事件」と称されるこのデスゲームは、仮想世界をめぐるさまざまな事件の幕開けにすぎなかった。
SAOの作画は当初からA-1 pictureが担当しています。現在放送中のアリシゼーションの新章は戦闘シーンが多いとはいえ、第17話でリーファの左目に投槍が刺さるシーンや第18話、キリトが胸を掘り返すシーンなど、過去の「ひぐらしのなく頃に」をほうふつとさせる作画でした(ひぐらしはスタジオディーンがアニメーション制作を担当しています)。
作画の雰囲気が大きく変わるというのは、何が影響しているんですかね?またアニメができるプロセスの中でどこに変化があれば、今回の作画の雰囲気になるのでしょうか。ちょっとこの辺りも調べていきたいと思います。
p.s.
今後は誰かと一緒に楽しむ、ということにもフォーカスしたいと思います(とかしこまってる時点でだめかww)